2015年8月5日水曜日

貫井徳郎『愚行録』を読み終わりました。


貫井徳郎『愚行録』

貫井徳郎先生の本は比較的に良く手に取る作家さんの1人です。
※ネタバレはありません

これまで読んだのは『乱反射』『夜想』『神のふたつの貌』等…
読み応えがあると同時に読後にちょっと気持ちが重たくなるような…そんなイメージのある作家さんです。
特に『空白の叫び』は読後数日は重たい気持ちを引きずってしまった記憶があります。
(とはいうものの『プリズム』や『被害者は誰?』等、気楽に読める作品もあったのですが)

今回この本を手にとったのは、女優の杏さんが帯に以下の様なコメントを寄せていたからです。
読みやすく、読みづらい。口語体だからこその読みやすさと読みづらさ。そしてリアルさ。凄惨な描写は一切ないのに、人の恐ろしさ、愚かさが露呈していく恐怖。嫌悪感。そして最後に待ち受ける衝撃。地上何階かのビルの中、ドアと言うドアを次々と開いて進んでいったら、最後のドアが外に直接つながっていて思いがけず真っ逆さま、そんな印象のラストでした。
先述の通り、貫井先生の御本は、ちょっと気持ちが重たくなるような作品が多い印象だったので、この作品も同様であると思い、少し敬遠していた面もあります。
ですが、杏さんのコメントを読んで、よし、その世界に飛び込んでやろう、なんて気分にさせられてしまったのです。
きっと杏さんってとっても頭の良い方なんですね。読後の感想を真っ直ぐに表現したと思いきや、本作のミステリとしての魅力をビルとドアにたとえて解説している。
ますます好きになってしまいました。

ところで、カバー裏のあらすじは以下の通り。
ええ、はい。あの事件のことでしょ?――幸せを絵に描いたような家族に、突如として訪れた悲劇。深夜、家に忍び込んだ何者かによって、一家四人が惨殺された。隣人、友人らが語る数多のエピソードを通して浮かび上がる、「事件」と「被害者」。理想の家族に見えた彼らは、一体何故殺されたのか。
この作品は杏さんの言うとおり「口語体だからこその読みやすさと読みづらさ」があります。
聞き手と読者の立場が同じで、語り手と会話しているように読み進めます。
でもその分、私はかなりさくさくと、中盤以降は先が気になって一気に読み終えてしまいました。

小説の構成としては、被害者に関わる数人の人々が被害者の人となりについて語り、その合間に謎の女性の幼少時代の思い出が挟み込まれる、というもの。

被害者、主に被害者夫婦について語るのは、ご近所さんから夫婦それぞれの知人、友人、あるいはもっと深い仲の人々です。
彼らの言葉で語られる、被害者夫婦は、またその語り手は、誰しも「ああ…こういう人、いるよね…」なんて思ってしまうような、妙にそわそわするようなリアルさがあります。
人は自分が見た、経験したものでも、自分がそうと信じたら(または信じたかったら)それが真実だと思おうとするものです。それは必ずしも嘘ではなくて、個人個人の持つフィルターなんだなと。
複雑でドロドロとした人間関係の真ん中に居るような、そんな感覚があります。

では『愚行録』を読んで、私は気持ちが重たくなったかというと、今回は少し違いました。
もちろん、清々しい気分ではけっしてありませんでしたが、不幸なニュースを見た後の同情のような、そんな感情でした。
それらは全て、登場人物のリアルさに起因するのではないでしょうか。

先にも述べたとおり、どの登場人物もどこかに存在しそうな人物なのです。
何故被害者家族は殺されたのか。
読み進めていくにつれ、被害者家族がどんな人柄だったのか、殺される程悪いことをした人物なのか。
人は多かれ少なかれいくつかの愚行を犯していることでしょう。
またいつどんなきっかけで愚行を犯すかわかりません。殺人という愚行すらも。
全て他人事とは言えないような、
そんな印象を持つ小説でした。


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